「植樹会作業100回に思う」如水会理事・事務局長、一橋植樹会理事 関 統造(昭41社)
平成23年11月18日のキャンパス整備作業が100回目に当たると、旗野植樹会長よりご連絡があり、お世話になった東京農工大福嶋先生に如水会と大学より感謝状と記念品を贈呈したいとお話があった時、よく100回も続いてきたものだと感無量であった。それと同時に10数年前のことが走馬灯のように蘇ってきた。
私は平成12年に大学入試以来38年振りに受験勉強を試み、好きな渓流釣りや登山の経験をベースに山の司法試験といわれる森林インストラクター試験に挑戦し、何とか資格を頂いた。これを知っていた当時如水会常務理事であった同期の吉田祐一君が、平成15年4月開催の植樹会総会に誘ってくれた。大学通りのサクラを見るつもりで参加したが、土砂降りの日であったのをよく覚えている。今とは違い、大先輩達が大勢参加されていた厳粛な総会で紹介され、臆面もなくサクラの話を交えて挨拶をした記憶があるが、植樹会は森林インストラクターと共通するものがあると確信し、それを契機に植樹会に足と頭を突っ込むことになった。岸田登元会長や田中政彦さん、福嶋先生、田﨑先生たちのお人柄にも大いに惹かれるものがあった。
先ずは、作業と並行して新生植樹会のコンセプト、定款作りから始まり、その事務方を任されることになった。福嶋先生を中心に作成された「キャンパス緑地基本計画」の存在は大いに助かった。将来の方向性をハッキリと示唆していたからである。コンセプトは新生植樹会の創設に関わった先輩諸氏の思いを集約したもので、平成15年に書かれた岸田元会長の遺稿に全て網羅されている。緑、とりわけ樹木は我々人間より長生きする。母校の森も例外ではない。この森を世話して行くには個人では限界があり、植樹会という組織を通じて先輩から後輩にバトンタッチし、永続的に行動しようとの「思い」が今回の100回目という偉業に通じていると思われる。しかし、雄大な自然を相手にする訳で、何時までたっても通過点であり、後輩たちが永続的に作業を継続して行く環境、状況を維持しなければならない。
新生植樹会の第一回作業は平成15年7月だったと思うが、私は第2回目より参加した。また森林インストラクターとして如水会晩さん会で「大学通りのさくら」の話をさせて頂く貴重な機会も頂戴した。聴講者が少なく同期の仲間が応援に駆けつけてくれた。イントロで「同期の桜がさくらになってサクラの話をする」とお話ししたことを覚えている。
その後、縁あって如水会事務局長を拝命したが、作業には極力参加してきた。平成15年開始直後、当然原動機付き道具は一切なく、長バサミ、鎌、鋸だけで生い茂るササ、クズとの格闘の連続で、特に岸田ロード脇のクズは強硬であった。キャンパス内をそれぞれ不揃いの服装で作業していたが、学生や先生方からは何処かのシルバーが何をしているのだろうかとの目で見られていたと思う。あるときはある先生から「うるさい」と怒られたこともある。このときは一同ショックを受けたが黙々と作業を続けた。
我々はこの作業を卒業生、教職員、学生の三位一体で実施できることを夢見ていた。植樹会のPRは直接または如水会経由で行ってきたが、併せて先生や学生の目を引くために、金線の入った派手な植樹会の腕章を作り全員これをつけて作業を続けた。暫くすると嬉しいことに運動部、新聞部、一橋祭などから大勢の学生が参加しだした。作業後の懇親会では学生達の顔に達成感が溢れており、また先輩方との会話も大いに弾んだ。
思い出に残る作業は、岸田ロードのサクラ植樹、自然薯掘りの開始、笹を刈ったあとに現れる記念碑など数え切れないが、ひょうたん池周辺の整備は忘れられない。驚いたことにあの黒く濁った水に魚が住んでいたのだ。また整備によって多分空から水面が見えるようになり、留鳥のカルガモを始め渡り鳥であるマガモまで飛来してきたことには感激した。ある年、カルガモが岸田ロードの藪の中に営巣したが、結局カラスに見つかり残酷な結果に終わったことが残念であった。
作業に参加した人たちはそれぞれ何か新たな発見や感動があると思う。特に自然とのふれあいが少ない最近の学生には、是非とも作業に参加して感動を味わい、懇親会では先輩達と触れ合って実社会の先取りをして欲しい。今や植樹会には先輩方のその様な「思い」が既にDNAとなっている。植樹会が母校や樹木達と共に永遠に続いて欲しいと願っている。