「一橋大学とイチョウ その2」一橋大学名誉教授 田﨑 宣義
大正12年9月の関東大震災で一ツ橋のキャンパスは甚大な被害を受けた。ザ・イチョウも大火で焼けただれて傾いたが、翌春には若葉をつけた。その時の喜びは「専門部の頁」(『一橋新聞』大正13年11月15日付)にも、次のように語られている。
「大震災は幸にあの大銀杏の命を見逃してくれたが、あの錆びた赤煉瓦の学舎を失つた彼は、今バラツクの東側に自由の鐘と並んで悄然と金風に喘ぎながら在りし日のことを思ひ顧らして居るのであらう。
この銀杏がまだ健やかに全一橋の上に慈悲深い瞳を投げて居る頃、自分等の一橋学制は三科に分れたのであつた。」 平野貞明「三科分立のなる迄」
「復興の公孫樹下に永い沈黙(しゞま)を破つてあの朗らかな鐘の音が響き渡つた日からのお前のすばらしい生命の飛躍!」(カッコ内は原文のルビ)樹夜思「相手ある独言」
一ツ橋に、永い沈黙を破って朗らかな鐘の音が響きわたったのは大正12年の12月1日だが、このふたつの文章からも、学生たちのザ・イチョウに対する思いがよく伝わってくる。固唾を飲んでザ・イチョウを見守っていたに違いない。ザ・イチョウは震災の大火を乗り越えたのである。
文中の「自由の鐘」は現在も鳴っている始業と終業を告げる鐘で、一ツ橋ではザ・イチョウの傍らにあり「使丁」がヒモを引いて鳴らしていた。私は、毎日聞いていたあの鐘に「自由の鐘」という立派な名前のあることを今度はじめて知った。けれども残念ながら、名前の由来まではわからなかった。ちなみに、この「自由の鐘」は昭和5年の本科移転とともに国立に移設され、現在は附属図書館に保管されている。
さて震災後、最初に一ツ橋の地を離れたのは予科で、大正13年4月から石神井の仮校舎で授業が始まった。その予科の紹介記事「ガイド・ツー・シヤクジ井」(『一橋新聞』大正13年11月1日付)に「かゝる秋麗の地に銀杏梧桐杉樹の緑に囲繞せられて建つ一群の建物こそ吾商大予科の校舎である」とあって、石神井キャンパスにもイチョウのあったことがわかる。バラック校舎の脇にイチョウらしき樹影の見える写真も残っている。「杉樹」の種類は不明だが、「梧桐」は「一橋会歌(長煙遠く)」に「梧桐の影に語らひし」と歌われている一橋ゆかりの樹である。
震災後の一ツ橋キャンパスにも「梧桐の並木もバラックの窓辺に植えられていた」(『国立・あの頃』)と増田四郎先生が回顧しておられるので、「一橋会歌(長煙遠く)」に登場するイチョウと梧桐が揃っていたことがわかる。
「一橋の木」ともいえるイチョウと梧桐は、石神井だけでなく、大火に見舞われた震災後の一ツ橋でも、震災前と変わらず、緑を茂らせていたのである。
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国立への移転が『一橋新聞』紙上で公になるのは大正14年の7月、正式発表は同年11月だが、その前年の6月の『一橋新聞』には、秋草露男の「公孫樹ひとりごと」という記事が載っている。長文なので要点だけを摘録する。文中の「……」は省略部である。
◇わしも大分齢をとつた。何しろこの一ツ橋の守り本尊になつてから、もう来年で五十年になるんだからな。早いものさ。ほんにタイムは夢のやうに流れる。……さて今夜はかうして、明るい月光の下に、変りはてたバラツクの棟々を見おろしてゐると、昨年の今ごろそれも
◇九十十一十二、一二三四五と、…あの恐ろしい日がもう九ヶ月も前になるかね。何十年も交際つて来た歴史的な煉瓦の棟々が、あの一晩のうちにスツカリ灰になつて了つた。情けない事だつたなあ。……
◇本科や専門部も、そのうち予科の方角へ追つてゆくらしい気色だ。さうなるとわしの永らく据えた腰もぐらつく訳だ。学園が育ちわしが育ち、一草一木みな思ひ出の種ならぬは無い土地ではあるが今こそ学校が一橋々畔の母胎を躍り出て広い武蔵野の空気に触れる時だと思へば、わしは喜んで固まつた腰を伸ばしどこの果(はて)までも随いて行くつもりだ。
主人公の「わし」は半世紀近く、商大を見守り続けてきた「一ツ橋の守り本尊」だから、ザ・イチョウと理解してよいだろう。震災の翌年に、橋畔を離れて武蔵野へ移転すると語られていることは注目に値するが、ザ・イチョウが「喜んで……随いて行くつもりだ」と独白していることにも注意をひかれる。「守り本尊」も一緒に移して当然、という筆者の思いが語られている。
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その後のザ・イチョウは次回に譲り、今回は、移転先に移そうとしたのが、ザ・イチョウだけではなかったことに触れておきたい。
『一橋新聞』大正14年11月15日付の「さて何とする?/町の名駅の名……」には、次のように書かれている。
各街路の名については住宅地方面は会社で区画して1、2、3、4、5、6、7、8、9、10等、縁起を忌んで番号分けにしてあるから京都式の何條通りとか何号地とかいふ数字名でケリがつくが例の大動脈に当たる中心の大プールヴールには学校に因んだいい名をつけたいとあつてこれも色々考案中である。一橋通り、いてふ街、などのおとなしい所から、づツと凝つてヘルメスプールヴールとかマアキユリイアヴエニユーとか色々な珍案があるが一般の意向は五十年のなつかしい歴史の思ひ出として「一橋」といふ字を入れたいらしい。……【いゝ名を思ひついた人は本誌編輯部へ御申越になれば当局の方へ取次ぎます】
地名や街路名にも「一橋」を移そうというのである。今は「大学通り」とよばれる国立のメインストリートは、箱根土地の宣伝物にも「商大提案の理想道路」と謳われている新開地の目玉である。命名に力こぶも入ろうというものだ。「一橋通り」「いちょう街」はまだしも、「ヘルメス・プールヴァール」「マーキュリー・アヴェニュー」は、土地の人たちには何の事やら見当がつかなかったかも知れない。それにしてもイチョウが大通りの名称候補になっていることは、イチョウとのつながりの強さをよく物語っている。
「国立大学町」と銘打った国立の分譲は、大正14年秋に、まず商大関係者限定で始まる。その時のダイレクトメールには、大学通りを「これは商大提案の理想道路で廿四間のうち中央十間が本道、左右五間づゝが天然生の赤松やプラタナス銀杏野萩等を植え込んだ公園道となり、更に左右二間づゝ(学校前は五間づゝ)がアスファルトの歩道となるのであります。この大通りは商大を記念して「一橋通り」と命名致しました」と書かれている。この段階で「一橋通り」と決まったかのように書かれているが、実際には「一ツ橋大通」となる。ここではむしろ、街路の名称も固まらないうちに、「公園道」にイチョウが登場していることに注意しておきたい。
翌大正15年からは一般分譲が始まる。分譲用に作られた地図は何種類か残っているが、そこでは「一橋通り」は「一ツ橋大通」となっている。富士見通りは現在と同じ「富士見通」だが、注目すべきは、「旭通」が「如水通」となっている地図のあることだ。
その後、「如水通」は「朝日通」「旭通」となるが、「一ツ橋大通」は戦後まで使われた。それがいつから「大学通り」になったのか、これまた調べ切れていない。今日では、学内でも「大学通り」で済ませている。
これに対して、ザ・イチョウも自由の鐘も如水も一ツ橋の地名も移そうという当時の「一般の意向」を目の当たりにすると、一ツ橋を離れることがいかに大事件であったかが、あらためて解る。
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地名「一ツ橋」を移すことは、現在の感覚からは荒唐無稽とも思えるが、本科が移転する昭和5年には本科生の間から改名運動が起きている。如水会員の間にも、これに賛同する動きが出てくるのである。
本科生の主張は、移転を目前にした昭和5年6月23日付の『一橋新聞』「橋人の声」欄に載った「国立を一ツ橋と改名せよ」でわかる。長文なので全文は紹介できないのが、「是非この一ツ橋の名前を武蔵野に迄持つて行き度い」、具体的には「土地名称の「国立大学町」を「一ツ橋大学町」とし中央線駅「国立」を「一ツ橋」と改名して千載の後迄も商大を一ツ橋を(とカ)結び付ける」ことは「有意義なる運動である」という。
この主張は本科評議会でも賛成議決され、学長、鉄道省、如水会などに働きかけが行われた。学長や如水会常務理事会は気乗り薄で、『一橋新聞』も「目下の所この運動は一般学生生徒間には余り拡大支持はされていない」と冷ややかだが、如水会員の中には積極的支持者があった。
『如水会々報』第82号(1930年9月)に、酒井雅子氏からご教示頂いた記事がある。
(六甲室谷山荘での会合で)尚櫟木氏の主唱で如水会誌上、某氏が国立駅を一ツ橋駅
と改称方提唱に賛同し左の通り決議した
決 議
母校を永遠に記念する為め中央線国立駅を
「一ツ橋駅」
と改称する事を期成す
昭和五年八月八日 神戸いてふ会
尚追つて同様の決議案を如水会神戸支部に提出し極力支持することに申合せた。
これを読んで、いよいよ如水会員の間にも改名派の「神戸いてふ会」が結成されたかと勇み立ったが、次号の「神戸いてふ会」の紹介記事を読むと、どうも雲行きが怪しい。
抑々この銀杏会なるものは今迄公然と如水会々報に登記されない一種のSecret Orderで
あつて、会員資格は情熱的母校愛の所持者である以外に、多少酒を呑む術を心得、頭
髪いさゝか異状ある事を条件として居るためにお金があつて男がよくても若々しい黒
髪の持主である我々青年は未だ其の資格がないのである。…
これは部外者の羨まし気な暴露記事である。さらに探したところ、第80号に「いてふ会」の自己紹介があった。
いてふ会? それや一体何の会だと来るだらう。抑々本会の趣意は「思想や経験を等しくする同時代の一橋人の集り」など云ふと六づか敷なるが神戸に於て元老でもなく、さりとて新米でもなく中道を行く連中の月一回の飲み会なのだ。即ち三十七、八年度頃卒業を中心として其の前後数年に亘る横断的会合である。別に主義綱領てなものはないが一酔陶然の裡にヤアーヤアーで要領を得るのは一橋団体たるに背かない、創立以来茲に第廿三回。酷暑は止めとしても月一回の催だから最早ネット二年以上になる。格別七むづかしい規則はないが幹事二名宛順番毎月八日の日(八日が土曜、日曜に当れば繰上げる)に常磐花壇で行る、欠席罰金五円と云ふ事になつて居る、…
たしかに部外者が羨むのも無理はない楽しそうな会ではあるが、「神戸いてふ会」の正体は改名派の運動体ではなくて、単なる「飲み会」であった。これにはいささか拍子抜けしたが、「いてふ」を名乗るところに「一橋大学とイチョウ」問題の奥深さを知らされた。
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いまの私たちには無茶とも思える改名運動に、当時の学生や如水会員はなぜ真剣になったのか。このことは、籠城事件を率いた相京光雄氏の一文を読んで納得した。
学校が国立に移転してからもう四年になる。昔は「一ツ橋出」と云ふと相当幅を利かせたものださうだが是からの卒業生は国立で育つて国立を出る純粋の「国立出」と云ふ訳だ。所謂「一ツ橋出」が国立を知らないと同様に「国立出」は又一橋を知らない事になる。
幸か不幸か我々は一橋から国立へ過渡時代に在学したから震災で焼け残つた神田の図書館や汚いバラツク校舎さへ云ひ知れぬ親しみを覚え『梧桐の蔭に語らひし』橋畔の生活には懐しい思出もある。
其後国立に移つてからは立派な学園が日々に完成して行くのを目の当り眺め、『空高く光漲る』校庭の芝生に寝転んだのも昨日の様な思出である。
だから我々こそ一橋を識り国立を解するものと自任してゐるのだが或ひは両者を知らない半可通に堕ちねば幸である。
兎も角も此の両時代に亘る我々学生の使命として常に憂ひ且つ努めて来た事は光輝ある母校の伝統を如何にして一橋から国立へ正しく移植するかと云ふ問題であつた。
然し之は校舎の新築や銀杏の移植とは訳が違つてさう簡単に出来る事では無し又誰も今其の結果を見る事は出来ない。
この文章は、『如水会々報』如水会創立20周年記念号(昭和9年11月号)にある各年級会(当時は「クラス会」)の「誌上スピーチ」の抜粋である。
「一ツ橋出」が「国立出」になる、「光輝ある母校の伝統を如何にして一橋から国立へ正しく移植するか」という認識に、移転先の地名が一橋50年の伝統の行く末を左右する重大問題であったことがわかる。
移転前後の「一橋大学とイチョウ」問題には、こうした認識が背景にあったことを念頭に置いて考えなければならないのである。