「一橋大学とイチョウ その3」一橋大学名誉教授 田﨑 宣義

 国立への移転は2回に分けて行われた。先陣を切ったのは附属商学専門部と附属商業教員養成所で、3学年全部まとまって、昭和2年4月に現在の東キャンパスに移転した。
校舎は箱根土地が寄付した2棟の木造校舎のみで、「仮校舎」と呼ばれた。この頃は、木造校舎を「仮校舎」、RC造や鉄骨鉄筋コンクリート造を「本建築」とよんで区別していた。国立キャンパスで最初に着工した「本建築」は兼松講堂であったが、専門部と養成所が移転した当時はまだ工事中で、「本建築」の建物はなかった。
増田四郎先生はこの最初の移転組の一人で、この頃の様子を次のように回想されている。

「諸君は神田の都塵をのがれて、ここ国立の赤松の林に移つて来た光輝ある最初の開拓
者である。パイオニアーの精神に燃へて、学園都市建設の重大使命をはたしてもらいたい。」堀光亀教授は、例の名口調で、オックスフォードやケンブリッジの例をひきつつ、このように吾々を元気づけてくれた。しかし残念ながらそこにあるものはクルトゥアーではなくて、アグリクルトゥアーの臭気であり、まことに寒々としたパイオニアーの吾々は、こがらしの吹きすさぶ夕方など、遙かな都心の灯が恋しくてならなかった。 (「国立開拓時代の思い出」『Hitotsubashi in Pictures』)

 最初に国立に乗り込んだ先輩諸兄は、主事の堀光亀先生から、ことあるごとに「パイオニアー」と鼓舞されたようで、卒業後は「国立パイオニア会」を結成して活発に活動した。3学年にまたがった組織は如水会の歴史の中でも珍しいのではないかと思うが、国立パイオニア会の回想『国立・あの頃』を読むと、堀先生と「パイオニアー」の面々との心の通いあいが手に取るように伝わってくるだけでなく、古き良き時代の香りまでもが立ち上ってくる。
第2陣の本隊、商大本科(学部)は昭和5年9月から国立で授業を開始した。本科の移転に先立ち、附属図書館も国立に移転している。一ツ橋には、大学の出張所ともいうべき一ツ橋事務所を残すだけとなった。

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 本科移転が迫ると、再び地名問題が浮上したことは前に紹介したが、これも、一ツ橋ゆかりのものは一つ残らず国立に移転させようという想いの現れだったのだろう。この想いは在校生、卒業生を問わず広く共有された。矢野二郎先生像の建立もこの具体化の一つであった。
一ツ橋の故地を離れることが輝かしい母校の伝統にどのような意味を持つか、期待、希望よりも不安の方が勝って、移転が重く受け止められていたようである。
こうした中では、一ツ橋の樹木も移転の対象になって不自然はない。
昭和5年4月14日付けの『一橋新聞』には、樹木の移転作業の始まったことが、「移転迫る/馬力に積まれて運ばれる樹木/杉、楓、桐と抜かれ/校庭の春はあはたゞし」の見出しで報じられている。「昭和五年四月十一日の入学宣誓式の日から、訪れる気持ちで学園に立つと、まづ図書館前の樹木が少なくなってゐるのに気づく。気づく気づかないは勝手として、養子婿入の話が決って三月の末以来、掘だされた根に荒縄をまとった分別臭い木が、春の陽の中を馬力の上で五台と並んで、ゆらりゆらりと運ばれて行ったのは事実である、行き先は国立といふ」とあるから、荷馬車ではるばる運ばれたのだろう。現在の国立キャンパスには、杉、楓、桐のうち「梧桐の蔭に語らひし」と歌われた桐の姿が見当たらない。
4月も半ばを過ぎると緑蔭が恋しくなるが、『一橋新聞』のコラム「漏刻の砂」には「青葉の蔭慕はしき頃、樹木を奪はれた橋畔の学生。失恋の心に似たる哉」(昭和5年4月28日付)と出てくるから、樹木の移転もかなり進んだようである。
もちろん大小さまざまな樹木のすべてが国立に運ばれたわけではない。「身柄の大きいものは如水会で引取」り、会館の庭に移された。「ごく最近ひかれて移されたのは図書館前の背の高いヒマラヤ杉で、同じヒマラヤ杉でも地に低く、広くはう様に茂ってゐたのは国立行の仲間に入った、高い方のヒマラヤには、明治二十六年度卒業記念の碑があったからまず古顔の方であろう。この樹を前にしての図書館の姿等、卒業記念アルバム子ならずともよく気がつく好構図であった。だが、それも今やなし」と、4月14日付けの『一橋新聞』には出ている。

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 一方の如水会では、3月9日の常務理事会で「母校樹木譲受の件」が報告事項となっており、常務理事会に先立って開かれた会計委員会では「無償譲受に付、移植費は本会の支出とすること承認」とある。一ツ橋キャンパスの樹木を如水会の敷地に移植すること、移植費は如水会が負担すること、がまず決まったのである。
つづいて3月24日の倶楽部委員会では「植木屋の見積を徴したる結果、約三十本移植に要する費用概算八百円」で、他からも見積りをとることが決まっている。そして、4月1日の常務理事会では、14、5本を移植する費用として300円内外の支出が決まり、4月10日の定例役員会では、報告事項に「公孫樹、モチ、ヒマラヤ杉、楓等十三、四本を本会の敷地内に移植することと之が費用三百円内外支出のこと」が載っている。移植費用があまり高額にのぼるため、学校と相談して本数を抑えたのだろう。『一橋新聞』にある「明治二十六年度卒業記念の碑があった」「高い方のヒマラヤ」も会館の庭に運ばれたのであろう。
14、5本の移植が決まった4月1日の常務理事会では、ザ・イチョウが話題にのぼった。議事録から、その下りを紹介しておこう。

其後学校と打合わせたる結果、十四五本を移植し、之が移植費三百円内外支出のこと尚右の外母校の標徴たりし大公孫樹を是非母校残存敷地又は本会敷地内に移植する様学校当局と打合すこと

この日の常務理事会には、如水会の江口定條理事長以下、4名の理事が出席し、大学からは上田貞次郎先生が出席している。その席で、如水会側から「母校の標徴たりし大公孫樹」、つまりザ・イチョウの移植が取り上げられているのである。
このことは、ザ・イチョウに対する如水会員の関心の強さをうかがわせるが、大学はこの時点で、ザ・イチョウについて確たる方針を持っていなかったようにも読めるのである。 ザ・イチョウについては後で触れよう。

さて、常務理事会で話題に上った「母校残存敷地」とは、昭和7年に一橋講堂が建てられた一画で、現在はICSのある学術総合センタービルになっている。
国立キャンパスは、野球場と陸上競技場の一部を除いて、神田一ツ橋の校地と交換で取得され、交換の際に残されたのが如水会館に隣接する「残存敷地」である。一ツ橋キャンパスにあった樹木のなかには、この「母校残存敷地」に移植されたものもあった。
たとえば大正七年会は、卒業記念に植えた図書館前のイチョウをここに移植したことが、次の記事で分かる。

◇卒業記念樹移植の実行に就て

昨年卒業十五周年記念大会の時、全国会員に御相談した本件は愈々今度実行の運びとなり、万事如水会事務局に御委せした。<略>

因みに右は一ツ橋の旧図書館前に植えて置いた公孫樹が敷地取払ひの為打捨らるゝ運命に至るを惜しみ他クラス会の方針に慣ひ新成の一ツ橋講堂と如水会館との間の庭園に移植する次第である。        『如水会々報』第112号、昭和8年3月

 「他クラス会の方針に慣ひ」とあるが、ほかにどのクラス会の樹が移植されたのか、見つけることができなかった。

以上のように、神田一ツ橋の樹木は、国立の新キャンパスに移植されたもの、如水会館の園庭に移植されたもの、さらに一橋講堂前に移植されたもの、この3通りを確認できる。ほかに、やむを得ず遺棄された樹木もあったかも知れないが、それを裏付ける記事は見当たらなかった。いずれにしても、この移植費用が膨大な額にのぼることは想像に難くなく、それを敢えて実行したところにも、移転がどのように受け止められていたかを知る手がかりがあるように思える。

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 一方、広大な国立キャンパスには、神田から運んだ樹木だけではとうてい足りない。そこで大学側は、佐野学長が各クラス会に記念植樹を呼びかけた。
昭和5年から8年頃までの『如水会々報』には、記念植樹募金や植樹の結果報告の記事が数多く掲載されている。「他のクラスに劣らざるものを寄附することに申し合わせ」とか「右締切りは本年一杯と申し上げてある筈だ。アルバムの時の様に締切りの延期々々をやる必要もないから締切りには容赦なく締め切って仕舞ふつもりだ、帝展の京都出品の様に泣いても笑っても怒っても受け付けないから、有志の面々は遅れぬ様御注意を請ふ」とか、なかなか熱も入ったようだ。中には、『一橋大学国立キャンパス緑地基本計画』のリストにはない記念植樹もあるようだ。『如水会々報』から2、3紹介しておこう。
「三八会」は明治38年卒業のクラス会で、「神戸いてふ会」のメンバーにも該当者がいるが、「兼松講堂に向かって右手に立派な公孫樹二本が植付けられた」と昭和6年の三八会5月例会で報告されている。「母校に因縁深き大銀杏」2本で200円也は群を抜いた金額である。この2本はその後、増田学長の時代に「パイオニア-」の面々が寄附した20本の公孫樹で目立たなくなってしまったが、現在も立派に健在である。パイオニア会の植樹で南をふさがれて、日当たりも悪くなった姿は見ても気の毒だ。

明治45年卒の「四十五年会」は周到な準備の上で、昭和7年4月に植樹を終えた。『如水会々報』103号(昭和7年6月)には、次のような報告文が載っている。

拝啓 国立商大校庭に紀念樹寄贈に付ては多数各位の御賛同を蒙り奉深謝候、昨秋樟樹並びに木斛を買ひ求め根廻はし致置候処、樹木移植の好時期と相成候を以て去る四月廿七日前記樹木に躑躅及び八ツ手を添へ植込みを了し候間、御了承被下度、猶同樹木に一段の光彩を添へ度き為めと当会々名を記さんが為めに雪見燈籠一基を樹下にあしらひ置候、植樹当日は佐野学長自ら校庭に立たれ位置其他につき一々御指図相成又黒川事務官も終日御助力被下候事は特に深謝の意を表し度存候、右樹木の位置は大学本館の南側にて学長室と教授室との中間に位する最も日向り良き場所に有之候<略>

 造園家としても造詣が深かったという佐野学長の面目躍如だが、前年の秋から準備した四十五年会のクスノキとモッコク、それに雪見灯籠は(傘の一部が欠け落ちているが)どれも健在である。ただ日当たりは、こちらも悪くなっている。
「四一会」の紀念樹モチは『一橋大学国立キャンパス緑地基本計画』に載っているが、報告にあるように二代目である。こちらも、佐野学長の造園家ぶりがうかがわれる。

<略> 此書面で分明の通り一度植ゑた木が枯れ第二回に「モチ」を植ゑた、こんな訳で紀念樹の決算報告が甚延引した次第である。記念樹の植ゑた場合は佐野学長が我々四一会が母校昇格に特に功労のあった所から優待の意味で本館玄関向って右手を選ばれ高さ三間、目通り二尺三寸と云ふ相当なものを植ゑられた。<略>

「四一会」は、最初の記念樹が枯れたため、この報告も昭和8年10月の『如水会々報』に載っている。文中の「此書面」は黒川事務官からの書翰だが、その中には「「モッコク」「サツキ」を之(モチの木)に配し立派に出来上がり申候間御序ての節御高覧被下度候」の下りがある。
「四一会」も「四十五年会」も、高木に低木を組み合わせて植樹しており、最近の植樹とはよほど趣が違う。この当時は、これが一般的だったのであろうか。

昭和5年の話が昭和8年まで飛んでしまったが、元に戻そう。
昭和5年の春から一ツ橋キャンパスの木々が引越を始めると、一橋のシンボル、ザ・イチョウの行き先に関心が集まるのは自然の成り行きである。『一橋新聞』にもザ・イチョウがしばしば登場するが、ここでは如水会の動きを取り上げよう。
「母校の標徴たりし大公孫樹」が如水会常務理事会で取り上げられたことを報じた会報78号(昭和5年5月)のグラビア頁はザ・イチョウの勇姿で飾られ、頁右上の囲み記事「橋畔私語」には、つぎのように書いてある。

「母黌の移転もいよいよ近づいたと見えるね。大分校庭の樹木が此方に移されたではないか。」
「此秋には間違なく移転するさうだ。それはさうと彼の大公孫樹はどうなるのだらう。」
「何時かの一橋新聞で見ると国立へ持つて行きたいと学生連中が云つてるさうだが……」
「会館の傍まで移すのでさへ少く共五、六百円かゝるさうだね。」
「その位で済むのなら是非移して欲しいね。兎に角彼れは僕等にとつて一番思ひ出の深いものだからね。」
「どうだ、八千の会員で十銭づつ醵出して館庭に移植することにしたら……。恐らくは一人残らず賛成するだらう。」
「名案だ。大賛成。」

 この次の『如水会々報』第79号は、移転を目前に急逝した「福田徳三君追悼号」にあてられたが、その冒頭の如水会弔辞「福田徳三君の長逝を悼む」には、つぎの下りがある。

…一橋学園近く東京西郊に移らんとし、物として一橋の象徴たりし大銀杏樹の運命同人の話頭に上る時、人として学園の表徴たりし君既に亡し。享年五十有七、未だ頽齢と云ふ可からざるに天之を奪ふ。哀悼の情禁ずる能はざるなり。
社団法人 如 水 会

 一ツ橋の表徴ザ・イチョウは福田徳三先生と並ぶ存在になっているのである。

明けて昭和6年8月の『如水会々報』のクラビアには、「自由の鐘」が取り外された支柱とザ・イチョウが並んで写っている。鐘は国立に引っ越したが、学園のシンボルは未だに行き先が決まらない。寂しげなザ・イチョウを見た会員は気をもんだに違いない。

年が改まった昭和7年1月1日の『一橋新聞』に、ようやく「『相変らず宜しく』/橋畔名物大公孫樹/今春、一橋講堂庭前へ」という見出しの嬉しい記事が載った。

★…本学の創立以来六十年間、橋畔で我等と共に生ひ育ち、マスコットであるかの如く親しまれてゐた大公孫樹と鐘――鐘はサツサと本学の移転と共に国立に引つ越してしまつたが
★…余りの巨体のために国立移転のお供も出来ず、今は荒れ果てた一橋旧敷地にひとりさびしく落葉した巨体をじ立させて、その行方をかこつてゐた大公孫樹――
★…なにしろ老齢ではあり、歴史的遺物であるだけに、すげなく見棄てる訳にもゆかず、何とか余生を有意義に送らしてやりたいと一般同人は懸念してゐたが
★…今度幸ひ隣に一橋講堂が出来上るのでその庭前に移し、講堂に一偉観を添へることに決つた
★…建築場のゴタスタで直ぐといふことも出来ないので、今春、三四月の発芽期にいよいよ引つ越しが行はれるはずだがこれで一安心といふもの「相変らず宜しく」といてふは語る

 さらに3月の『如水会々報』第100号には「大銀杏の移転」と題する囲み記事が載り、次のように書かれている。

母校移転後其運命について屡々同人に案ぜられてゐた一橋学園のシンボル、大銀杏は若芽萠す陽春に先立ち先程、同じく旧構内矢野記念会館と目下進工中の一橋講堂との間に移植せられた。やがて緑をふいて橋畔に一層の興趣を添ふるであらう。

 かくしてザ・イチョウは一橋講堂の傍らで余生を送ることになったが、イチョウなしの国立はどうしたか。
最終回の次回は、このことに触れることにしたい。

一橋講堂

http://blogs.yahoo.co.jp/mk26813/50044736.html

Webで見つけた一橋講堂の写真です。
冬の写真でしょうか。上の緑はヒマラヤ杉、左に見える枝はイチョウのように見えますが、ザ・イチョウでしょうか…。
矢野記念館と一橋講堂の間には、何本かのイチョウが引っ越したので、確たることはいえませんが。