「我等41年会」栗田克彦(昭41経)

昭和41年卒業の我々は卒業後20周年の同期会をスター・ホールで開催してから「絆」が再生された。仲間の古塚君が26年前に日本橋の野村証券本社に顔をだし、二人で昼食を食べてから始まった。彼は「そろそろ、友の顔が懐かしくなった。皆に会いたいね。是非、同期会を立ち上げよう。」と小生に同意を求めた。そこから41年同期会がスタートした。

以来、25周年、30周年、35周年、40周年と既に5回を数える。各会で同期会終了後予算の剰余金から決まって大学に寄付し続けた。ところが、卒業40周年で小生が代表幹事を務めていた時、メンバーの一人が「記念事業として単に寄付するだけでは能が無い。植樹会という組織があって、月一度学内での労働奉仕がある。それに同期会として参加してはどうか?」との提案があった。即座に、これは面白いと思い小生は代表幹事仲間に問い掛けた。すると反対する者もいたが、小生は強引に学年幹事会50数名に諮ってからその結論を待つことにした。実際に皆の前で説明すると、今までの会の運営において殆ど野党的意見を雄弁に語る岩崎君が「母校、一橋大学の為に汗をかく、良いじゃないか!是非、やろうじゃないか!」となり、次の植樹会から41年会として参加した。当時は何度か作業前と作業後の写真を撮り、その変化率の大きさに感動を覚えたものだ。驚いたことに参加者全員が2時間黙々と作業し続け、当時は大雨の中でも作業をし続けた。決められたエリアの草を刈るという目標で仲間と共同作業をするのは初体験だった。しかも2時間後には直ぐ全員で完成度を自分達の目で確かめ、それによって連帯感、仲間意識を向上させた。達成感の下、母校が見違える程の綺麗さを実感する感動は参加者しか味わえない。とても貴重な時間だ。大汗をかいた後のビールの旨さは格別だ。その日の作業が終わると又参加したいという気持の高揚でリピーターが増えた。平塚から往復3,000円もの交通費を払って片道2時間もかけて参加する中山君を始め、千葉、横浜、町田からの参加者も多い。全ての参加者が41年会の「神輿」を担いでいる。ただ、我々が参加した頃、大きな問題があった。

1年間の作業日程が決まっておらず、次回の開催日は前月の作業日当日に発表されていた。その為、参加したくとも予定が立てられないという矛盾を抱えていた。41年会の新里さんが幹事になってから、41年会としては1年間の予定を大学の行事として発表して欲しい旨を強力に主張して貰った。暫くして施設課の方から年間行事として発表され、やっと我々の主張が達成された。お蔭で日程を見ながら予定が組めた。これで我々もとても参加し易くなった。更に、樋口君の存在も大きい。毎月、施設課との話合いの情報を毎月詳細にメールしてくれる。いわば、彼は我々の指揮官だ。41年会の植樹会での旺盛を支えているのは新里君と樋口君の黄金コンビです。

又、作業終ってからの集いがこの41年会の参加に華を添えている。学生を交えた全体の反省会の後、41年会のみは居酒屋“庄屋”でビール、酒を飲みながら大議論が始まる。2時間弱、12~13名全員が声を張り上げての政治、経済に関する各自の思いを仲間に話す場だ。元商社マン、銀行員、生・損保、メーカーと様々なので、時には「水と油」の然し、これがとても楽しみだ。気楽に仲間の本音が聞ける。酒を一滴もやらず“ウーロン茶”のみでの参加が2~3名いる。2時間弱がすぐ過ぎてしまう。全員、いつも決まって大満足して家路に向かう。昨日(6/20)庄屋で竹下君が、「植樹会常連の同期は学生時代、一度も口をきいたことがない仲間ばかりだ。それが毎月こんなに楽しく旨いビールを飲めるなんてとても幸せだ。皆の意見はグレードが高くとても勉強になる。一橋大学は実に素晴らしい大学だ」と絶賛していた。「顔が広い」と自負している小生も13名の仲間の内、学生時代からの知り合いは4名のみ。実は小生もこの植樹会で新しい絆を誕生させ、多くの仲間、友人をつくった。

元来、1年間だけの記念行事としてスタートしたのだが2年目からは41年会の同好会として名前を変えて参加している。お蔭で国立の桜も5年連続で鑑賞出来たし、一橋大学合格者番号の掲示板も何度も見た。今年のホーム・カミング・デイで41年会が招かれたが、学内の綺麗さに驚いた多くの友人に会った。中には裏方の我々の労を労ってくれた友人もいた。

植樹会活動は正に小生のライフ・ワークであり、パッションとミッションで、体が動く限り、続けたいと思っている。最近、学生の参加の増えたのは頼もしい限りだ。今後は後輩達とのコミューニュケイションの場を拡げて、少しでも後輩にとって役立つ先輩でありたいと思っている。この作業に参加した人は必ずや「母校愛」が育まれると確信する。

植樹会昭和41年会サークル 
2009年11月撮影