「渡良瀬遊水地への研修旅行」作業班 鈴木徹郎(昭39社)
このたび(5月18日)如水会埼玉県東支部の主催で、標記の研修会を行いました。他支部および植樹会の方々も参加され、賑やかな会になりました。
関係各位には 心からお礼申し上げます。国持さんは 体調不良で残念でしたが、湯川副会長と岸田夫人が元気な姿を見せてくださいました。
この研修会報告書は、如水会報7月号「しぶつうしん」に掲載予定で、41年会メンバーとして植樹会作業には 毎回のように参加されている関野 衛氏が記述しております。全般的な感想は その報告に尽きると思います。
渡良瀬遊水地は33平方キロにおよぶ広大な湿地帯で、人工的なものでは国内最大規模です。その利水、治水事業としては、首都圏にとっては不可欠の水がめであり、洪水防止に欠かせない新方式の‘堤’の役割を果たしています。
景観としては、北海道を思わせる雄大な自然美が楽しめます。その上 生活の場が存在しないので、絶滅危惧種の植物が多数生き残り、渡り鳥などの営巣(ラムサール条約加盟準備)、魚類、昆虫等も豊富で、遠方からも観察目的の訪問客で四季を通じて賑っており、地域住民にとってはスポーツやレクリエーション、子供の自然勉強会など 文化的な貢献も大なるものがあります。
都心からも近く(JR上野駅または新宿駅から古河駅までは直通1時間)一度訪ねてみてはいかがでしょうか。
一方では 歴史的な関連で およそ1世紀前の近代日本の象徴的な史実が鮮烈に残されていることにも触れたいと思います。
<ひとつ>には、
●渡良瀬川上流にある足尾銅山の存在。日露戦争前後、きわめて重要な財政的な役割を果たしたこと。
●増産に次ぐ増産で大気汚染など配慮のかけらもなかった時代、その鉱毒(硫酸ガス)で、広大な山地(数十平方キロ)で植物が死滅し 土壌が流失したはげ山と化したこと。また 山域全体の保水能力が失われたこと。
●今日は 皮肉にも日本のグランドキャニオンとして、観光地化をめざしていること。また 鉱山跡地を世界文化遺産に登録すべく活動中であること。
●100年を経ても 緑の再生は遅々として進まず、ボランテイア活動で植樹運動が大掛かりに行われていること。(当植樹会としては 必見)
だいぶ昔 私もその様を見ながら、鉱毒事件はあっても日露戦争に負けるわけにもいかなかっただろうし、などと歴史の評価ができないおのれの不見識ぶりを嘆いたものです。
<ふたつ>には、
●その銅山の下流、桐生、足利、太田、館林、そして藤岡、古河周辺で洪水が頻発したこと。その都度 鉱毒が田畑に拡散して 農作物に多大な被害をもたらしたこと。
●とくに 後に渡良瀬遊水地となる藤岡、古河地域が社会科の教科書でも知られる田中正造翁の農民抵抗運動の舞台となったこと。
●それらの鉱毒事件が、本学ともゆかりの深い勝海舟翁の「氷川清話」で紹介され(明治30年、毎日新聞記事で鉱毒防止策の欠如を指摘)、日本における公害の原点として今日の社会で認知されていること。
●また その地でのレジスタンスが城山三郎先生の小説「辛酸」を生んだこと。
●そして 今日 渡良瀬遊水地は公益性の高い施設に生まれ変わったことで、結果オーライでありながらもハッピーなこととなった。
今回の研修会は まず遊水地の管理を行う「国交省利根川上流河川事務所」(所在地は遊水地の一隅、旧藤岡町、現栃木市)を訪ね、DVDで施設概要の説明を受け、次いで職員の案内で施設現場の説明、史跡の見学そして質疑応答を行いながらバス遊覧を楽しみました。現代の土木工学をも非常に分かりやすく 話されて、ずいぶんと勉強になったと思います。
幸いにして、当日は河川事務所の嘱託職員がおられて現場を案内いただいたが、その方は、かっての抵抗運動の中心地‘谷中村’の村長のひ孫であられたこと。
その昔 田中正造翁と対立した村長側の‘事情’ももれ伺うことができたこと。
その方は古沢さんといって、埼玉県春日部中学(現高校)に通われて、われら東支部とはご縁の深い関係にあったこと。
まるで 絵に描いたような偶然が積み重なったが、旅とはそういうハプニングがあるから面白いのでしょう。
私としては、今度は植樹会の立場で、足尾か渡良瀬の研修旅行を企画してみたいと考えております。もちろん 別の目的地であっても構いません。皆さまのご希望をアレンジして、私なりのかくし味を添えて計画を組み立てていく作業は大好きですから、機会があればぜひご用命ください。たかが旅行とはいいながらも、アカデミックな雰囲気の濃い植樹会の持ち味は、忘れないように心がけるつもりです。