「昔話:一橋会の復活」鈴木徹郎(昭39社)
私が学生であった昭和36年(1961年)ころのことですが、同世代の皆さまには耳慣れた社会状況を背景にした本学に関するお話しであります。
ある日石原と名乗る若い先輩(20代後半)が、応援部を訪ねてこられた。居合わせた者2,3名で応対したが、汚い部室では話しも進まないので外に出て、喫茶店ロージナに落ち着いた。あらためて、先輩は石原慎太郎と自己紹介され、われらもお名前は存じ上げていたが、今日のような存在感はなかったように記憶している。
お話しというのは結論を先にいえば、大学の運営に昔の「一橋会」方式の復活を、応援部が中心となって運動してほしい、とのこと。最初われわれは何のことか分らなかった。その会の何たるかも認識してなかった。先輩との話しが進むなかで、ようやく容易ならざる事態を理解できるようになった。
あの当時60年安保闘争が社会的にも学園の中でも重大な問題として、学生に覆い被さっていた。ノンポリの応援部員にも、イデオロギー論争に係りないところで、バイトが無くなったとか生活の身近な部分に影響がでてきて危機感を募らせた。とくに、一橋生の経済力は低かったので、なおさらだった。そんなところに「一橋会」問題が飛び込んできたわけだから、単純に面倒なことになったというのが本音だった。
先輩はおっしゃった。こんなに左傾化した社会や大学を、中道に戻すこと!
たとえば、一橋の歌にもあるように「自由の砦、自治の城」は、戦前は籠城事件など国家権力に反抗した一橋デモクラシーの象徴であって、反軍国主義の理念を主張したものだった。しかるに 安保時代の今日、「自由の砦」は当然反共産主義のためにあるもので、いま砦は破られようとしている。(うーん、分ったような分らないような、・・・そんな一橋大学史は教わってないが)
そこで、一橋人の誇りである「一橋会」の民主主義を、ここで再認識することが問題解決の第一歩であると。ぜひ学生を糾合し、一橋の伝統的なリベラリズムを守るべく、大学の運営に関し、あるいは学生自治会のありかたについて話し合い、そして「一橋会」復活の方向に誘導されたい。それが学園を破壊から守る確かな道であることを理解してほしい。(以上の表現は私の記憶不明確により、当時の先輩のお言葉をかなり意訳しております。)そのように激しく檄をとばされた。
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さて「一橋会」について一言触れたい。この組織の歴史は古い。私の手元に東京商大(大正9年大学昇格)一橋会規約と大正11年(1922年)の改定規約がある。しかし、その創設は明治に遡る。皆さまの愛唱歌 ‘一橋会歌-長煙遠く’ は、東京高商時代の明治37年作(1904年、日露戦争時)とある。
この会の特徴は大学運営の3者構成による三位一体的な妙味にある。
<6条>(役員) 会長(学長)理事8名(各部幹事学生)理事会、方針策定
評議員9名(一般学生)評議員会、予算議定
<4条>(会員) 通常会員 本科、予科、専門部の学生全員
特別会員 教職員、出身者(OB)
<5条>(各部) 編纂部、研究部、英語部、端艇部、庭球部、柔道部、剣道部、
弓道部の8部、各部部長は教員、部を監督指導する。
(その後は部数は増加している。)
要は、大学(今日の文科省教職員)学生(今の自治会、サークル、一般)が一体となり、出身者(今の如水会)も参加できる団体で、創設年は不明だが‘社団法人’である。同じころ、学長選出にも学生参加が実現している。
(参考)如水会の設立は大正2年(1913年)。
この会は学生の自治権を認めた組織であって、全国に例をみない。永年の中央権力との闘争の結果、勝ち得た権利の積み重ねでもあった。この組織は終戦を迎えるまで存続したが、軍国主義が強くなるなかで、やがて「自由の砦」が崩されていったのは、いたしかたのないことだった。
戦後学制改革があったが、大学の管理運営にも、そして如水会の組織にも、かっての「一橋会」の残影をみることができる。いまさらながら、古き一橋人の強靭さとしなやかさに感銘するばかりである。
資料出所:一橋大学百年史
(参考)年史の相当部分が一橋会に費やされている。楽しいのは、端艇部のHCSクラスチャンの毎年の記録や野球部の試合のスコア9イニングがズラリと並んでいるのは壮観であった。
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さて、青年作家石原先輩との件はどうなったでしょう。
会見後「一橋会」時代の先輩に話しを聞いたりして、われわれに取り組める問題なのかその可能性を仲間で話し合い、自治会(当時は民青色=日本共産党)の親しくしている人とも意見交換してみたが将来の展望がえられず、ただ社会の潮流のすさまじさにわれらの無能を思い知らされるばかりだった。
「一橋会」半世紀の血と汗で築いた金字塔を、短時間で再現することなど神を畏れぬ仕業ともいうべきか・・・言い訳です。(余談だが、歌って踊っての‘民青’路線は、まやかしの戦術にすぎないとして、石原先輩の大変嫌うところであった。)
そうはいっても運動部との話し合いなどで、一橋は無法者の勝手し放題は許さない等最低限のコンセンサスは確認しあった。その旨、石原先輩に報告し「一橋会」の問題に対処しえない事情もお話しして、深くお詫び申し上げた。思うに、石原先輩の提言は、その背景に多数のOBの意思が動いていたであろうことは、後日思いめぐらすことになる。いずれにしても、若き先輩の母校愛には瞠目すべきであり、今日も母校を熱愛されていることは敬服あるのみです。
そして、学園を荒廃させないという大目標は、一橋会問題とは関係なしに、辛うじて実現していった。大学を守ったのは、大学当局、自治会や一般学生、諸先輩との間に目に見えない強い絆があって、それが守護神となった。一橋人は極左や新左翼といった無法集団に対する見極めが確かであり、東大・京大や早稲田・法政などとは一線を劃した一橋特異の自立精神がものをいったのだと思う。またそれは‘三位一体的’な伝統の精神のなせるわざであったのかと、今にして思うのである。
その後、少なくとも応援部との係わりにおいて、「一橋会」再建の話題があったということは聞いていない。なお、この一文を公表するにあたって、石原先輩の了解を得ていないことをお断りしておきます。
(了)